どうも、太陽です。(No34)
突然ですが、僕は小学生~高校生、さらには20代中盤まではかなりのゲーマーでした。
まさにゲーム中毒といってもいいくらい、ゲームにどっぷりハマり、プレイを楽しんでいました。
そんな僕ですが、今のおじさんの年齢になってからはゲームをほぼやらなくなりました。
理由は単純に飽きたのと、昔ほど純粋にゲームを楽しめなくなったのと、ゲームよりも面白い対象(読書や情報収集や執筆など)を見つけて、そちらにハマってしまったからです。
しかし、約20年間のゲームプレイ時間が無駄になったわけではなく、その証拠に「過去のゲームMusicが相当に楽しめる」ということに気づきました。
作業用BGMに、今までは邦楽を聞いていたのですが、邦楽以上に「癒やし効果」と「楽しさ効果」がゲームMusicにあると分かりました。
今回は、そんな「癒やし効果」と「楽しさ効果」がある、僕がおすすめするゲームMusicをYouTubeから選びびましたので、興味がある人は続きをお読みください。
1 僕がおすすめするゲームMusic
では、早速ですが、僕がおすすめするゲームMusicのYouTube動画を貼っていきます。
FF6は、まさに名曲揃いであり、サウンドのCDも所有していたほどです。
ドラクエも名曲揃いで、かなり気に入っています。
ファミコン音源のドラクエ1、2、3も良いですね!
ファミコン音源のドラクエⅣも良いです。
ドラクエⅤのサウンドもお気に入りです。
アラフォーの主が選ぶスーパーファミコン名曲100選は共感できます。
30代・40代に贈るドラクエほぼ全戦闘曲オーケストラメドレーです。
ファイナルファンタジー1~10の全戦闘曲集です。
結局、ゲームMusicでお気に入りなのはほとんどドラクエとFFでした。
心が洗われる名曲ゲームMusicをありがとう!
また、プログラマーが作業BGMに使うのに最適な曲を紹介します。
2 精神分析について語ってみる
ここからは、蛇足の記事なので、興味がある人だけお読みください。
最近、精神分析の本を読んでおり、それについていろいろと思うことがあるので書きます。
以下の精神分析の本を読んだので、これを基に書きます。
精神分析は精神科の主流にはなれませんでしたが(効率が悪すぎる)、一部の精神分析の人たちは「患者を持続的に集められ、生き残る」と思われます。
日本には精神分析家は30人ほどしかおらず、海外だと、国際分析学会、IPAの本部がある精神分析のメッカであるロンドンは350人(ほかにロンドンには、ユング派が300人、週に3回の精神分析的精神療法家が400人ぐらいの計1000人ぐらい)、アメリカには3200人、ドイツは900人、フランス600人、カナダ300人、イタリア600人、オランダ200人、スペイン200人、アルゼンチン1200人、ブラジル900人というデータがあります。
(フランスはIPAに属していないラカン派を入れると、5000人くらいいるようです。世界でIPAに属している分析家は1万人です。韓国は30人ぐらいしか分析家がおらず、日本と同じです。インドは50、60人ぐらいいます)
そもそも、患者は症状を良くするために来ておらず、実存的な悩み(なぜ、自分は生きているのか、本当の意味で自分は人を愛したことがないのだがどうしてなんだろうか?など)を解決するためであり、現在、それを提供しているのが、宗教か、セラピーなのです。
そして、精神分析で症状が取れるのは副産物であり、「分析的なプロセスの中でその人のなかの葛藤が解決される」、もしくは「その人の内的な成熟が進む」、さらに言うと「その人のいろいろな部分と出会う、または自分の外に切り離していた部分と出会うというような体験、そういうものをずっと繰り返していくうちにある種の無理が減っていくと症状も良くなる」という意味です。
つまり、精神分析は症状をよくすることが目標ではなく、ということは「普通の医学モデルの治療ではない」ということになります。
詳しく説明すると以下になります。
「患者の中のリアルな体験(心的現実)は、客観的な事実(fact)ではないですが、事実かどうかはどうでもよく、患者がそう感じているのはある意味、リアルであり、力があり、症状を作っているのだ」と、フロイトは気づきました。
つまり、「客観的事実なんてどうでもいい。患者のファンタジーが大事だ。患者が主観的にどう体験しているか、そこだけを見ていけば物事は見えてくるし、患者は変化していくんだ」となり、「客観的事実はもういいよ」(医学を無視)という流れになりました。
患者さんの抑圧されていた考えを解釈して、患者に意識されて症状が減れば、それはある種のリアリティがあり、つまり、症状が良くなります。
症状がよくなるのであれば、その患者の考えはリアリティがあり、絵空事ではなく、その考えが事実である必要はない、というわけです。
患者にとって極めて差し迫り、切迫感というか、非常に迫ってくるものでリアルであれば、それは力があるものであり、治療的に意味があるものなのです。
これが精神分析理論の根本的な考えです。
また、以下の本によれば、精神分析学の祖であるフロイトは、当初、外因性・内因性患者ではなく、心因性の患者を対象に治療をしていました。
心因性の疾患は当時で言えば、ヒステリー患者のことであり、現在のDSMではヒステリーという診断名は消滅しています。
以上、精神分析は治療のために生まれたもののようですが、現在は実存的な悩みに利用されているようですね。
ちなみに、「精神分析に金を払える」ということは、比較的、裕福であり、一見、幸せそうに見えて何とかやっているように見えますが、本質的には相当に苦しんでいたからこそ、通っているわけです。
症状と精神病で苦しんでいるわけではなく、「そもそも、この世界とどう対峙するか、ということについてものすごく空虚であるとか、倒錯的というか、結局、人の人生を盗むようにしてしか生きられないとか、本当の意味で自分の喜びというものを生み出すことができない」などそういう問題で困っています。
うつ病のように、脳がバグっている人には薬を処方して、うつ病患者の人生相談は一切、聞かないようにしているとのこと。
著者は「適度に嫌われて愛想を尽かされて、サッサと患者が去っていく人がいいお医者さんだ」と言っています。
それにしても、精神分析は当初、心因性のヒステリーや神経症などの治療のために使われていただけあって、参考になる知識の視点は多いです。
そして、フロイトが確立した精神分析論は、「フロイト自身の経験によるものであった」というのは興味深いです。
頼りない、英雄でない父親の代わりに、他人に理想の父親像を求めていて、青年フロイトが大学時代にブリュッケ教授に心酔していた話や、母親に寵愛を受けていたことから「母親の寵愛を受けた人は、一生涯、征服者という感情、すなわちしばしば現実の成功をもたらす、成功への確信を持ち続ける」という主張につながったなどあります。
つまり、「エディプス・コンプレックス」はフロイト自身の願望が由来でした。
理想の父親代わりであったフリースとの交友関係において、エディプス・コンプレックスが意識化されると、フリースに対して投影していた父親像が消え去りました。
これは精神分析において、「男性患者が治療者に投影していた父親像がはがれ落ち、ありのままの治療者の姿が見えることによって、治療関係が終了することと同じ」であり、案の定、フロイトとフリースの交友関係も終わりました。
フリースとの関係を通じて深めた自己分析によって、「父親からの心理的な独立を果たした」と言えます。
同時に、フロイトは母親への性衝動があり、そんな中、強い母親への固着(快の追求)と、絶対的な承認と保護を失なうことへの恐怖(不快の回避)を持ち合わせており、「人間の心理とはかくも複雑なものなのか」と驚きました。
なんとなく生きづらさを感じており、しかも心因性の病気を患っているのなら、薬の治療はもちろん、精神分析の本も読んでみると、内省ができ、「自分が苦しんでいたのはもしやこれが原因だったのでは?」と自己治療できる可能性もあるかもしれません。
毒親が原因だったと再確認する人もいて、「その距離感や関係性を再認識・再構築できるか?」も問われます。
加えて、ラカンについて、日本一?わかりやすく書かれているらしい本を紹介します。
ゼロから始めるジャック・ラカン ――疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版 (ちくま文庫)
また、以下の本は精神科の病気がかなり分かり、精神病患者との接し方がわかるので、理解を深めたい人にはおすすめです。
そうだったのか! 精神科の病気 その人には何が起きていて、どうケアすると助けになるのか
統合失調症患者には、例えば「妄想を否定しようと、証拠を突き付けたら裏目に出た話」、次に「幻聴に手紙を書いたら、声が静かになった事例」が書かれています。
回復の目標は「まとまりを取り戻すこと」(統合失調症患者は、筋道立てて考えること、感じること、伝えることができなくなる病気)であり、「幻覚・妄想が消えること」ではないのです。
双極症にはⅠ型とⅡ型があり、Ⅰ型は「躁エピソードと抑うつエピソードがほぼ同じ配分で交互に訪れるもの」で、Ⅱ型は「基本的にうつが優位で、時折軽い躁状態が出没するもの」です。
躁状態のときは、楽しそうにしていますが、躁状態から脱すると「どうしてあんなバカなことをしてしまったのだろう」と後悔し、自分を責め、さらに責め続け、抑うつ状態が強くなります。
抑うつ期間が明けると、少し間を置いて躁に移行します。
周囲の人は「なぜ過去の経験から学ばないのだろう」「そんなに苦しいなら繰り返さないように気をつければいいのに」と思いますが、この繰り返しに疲れているのは誰よりも本人なのです。
躁によって起こったことに対しては、抑うつを用いて後悔し、その後悔によって落ちすぎてしまった感情を、今度は躁によって立て直そうとするように映ります。
患者は不器用なのです。
双極症の治療には気分安定薬を用います。
依存症は以下の種類があり、バラエティに富んでいます。
依存症とは「安心して人に依存できない病気」であり、自立とは「社会の中に依存先を増やすこと」となります。
パーソナリティ症は「人が社会とつながるために用いる機能が障害されている疾患」といえます。
また、パーソナリティ症で見られる症状の多くは「脳の機能変性により生じた障害である(幼少期の虐待など含め)」という理解に立つと、「この一連の脳の変化は、患者さんが過酷な環境でもなんとか適応しようとしてきた証である」と了解することもできます。
加えて、患者さんの対人関係における反応は、本人の意に反して起こっていると理解する、つまり「自分でもどうしようもならない」「したくてしているわけじゃない」「その行動の背景には機能障害がある」と少しでも思えば、私達の反応もずいぶん変わるでしょう。
パーソナリティ症には、猜疑性パーソナリティ症、シゾイドパーソナリティ症、統合失調型パーソナリティ症、反社会性パーソナリティ症、ボーダーラインパーソナリティ症、演技性パーソナリティ症、自己愛性パーソナリティ症、回避性パーソナリティ症、依存性パーソナリティ症、強迫性パーソナリティ症があります。
他にも詳しい情報が満載の良本ですので、興味がある人はぜひ読んでみてください。
そうだったのか! 精神科の病気 その人には何が起きていて、どうケアすると助けになるのか
ではこの辺で。(4733文字)
このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。
あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。
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